グッバイ・オールド・スポート

悲しいお知らせに気付いたのは昨日の夕方、
仕事の合間に一服しようと席を立った頃合いだった。

友人が死んだ。

と、京都に住む友だちが知らせてくれた。
友人などと言ってしまうのは失礼に当たるのかも知れないけど、
わたしが「ともだち」だと口にしても不愉快に思ったりしないような
おおらかな人だったように思うので、
生前の彼のおおらかさに甘えて、友人と書かせていただく。





初めて会ったのはメトロで、最後に会ったのもメトロだった。
「あの人メトロに住んでるんだよ」などという友だちの言葉を真に受けて
「え、お風呂とか洗濯とかどうしてるんですか」
などと聞いてしまった阿呆なわたしに
「比喩って言うんですよ、そういうの」と言って笑ったのが初対面。


朝方、少し空いてきたフロアのやや後方で缶ビールを片手に踊る姿は、
わたしの思い描くメトロの風景に必要不可欠だった。
踊り狂ったままハイタッチを交わし、
たまにご機嫌だと手に持ってるビールを一口飲ませてくれたりする、
自転車で颯爽と帰っていく姿が印象的な、みんなのお父さんみたいな人。
年齢は40代の半ばらしい。
大人なのにとても若々しい彼を見ていると、
自分のすきなことをきっちりと出来ている人は
年なんてとらないのかも知れないな、などと思った。
背が高くて、博学で、でも堅苦しくなくて、気さくで、穏やかで、
映画をたくさん観ていて、本をいっぱい読んでいる、
格好良い大人の代表格のような人だった。
いつかわたしもああいう大人になりたい、と思っていた。


関東に戻って来てからはこれといって交流があったわけではない。
でも、映画やら本やらの感想が小気味いい文章で綴られている
彼の日記を読むことは、相変わらずわたしの楽しみのひとつで、
面白そうな本が紹介されていたりすると、その本の題名のメモを片手に
仕事帰りに本屋へ向かったりしたこともあった。


京都に行ったついでに足を運んだメトロにて、
フロアの人だかりの中、頭ひとつ飛び出た姿を確認して、
「ああ、相変わらずのメトロだわ」と思ったりもした。

かれこれ十数年、メトロに通い続けてるんです、と言っていた。
年月が経っても変わらないものを象徴するような人だった。
わたしにとっても、他のみんなにとっても。


彼の日記の更新が滞ってからも、
忙しいんだろうな、でも元気にしているんだろうな、
また本の紹介が読みたいなぁ、などと思っていた。

次に会ったら「グレート・ギャツビー」と自転車の話をするつもりだった。
そして、別れ際には「元気でいてくれたまえ、オールド・スポート」と
口々に言い合うのだ、と思っていた。


息を引き取った、なんて、突然きいても実感が湧かない。
居なくなってしまっただなんて、全然信じられない。
今だってレイトショーを観た足でメトロに寄って、
缶ビール片手にご機嫌に踊ってるんじゃないかしら、 などと思ってしまう。

まだ、この世には、彼に観られるのを待っている映画が
巨万とあるというのに。
などと、映画なんてほとんど見ないわたしが勝手なことを思う。


日記が更新されなくなってからの数ヶ月感、
彼はどんな日々を過ごしたのだろう。

ご機嫌な音楽は、キンと冷えたビールは、
面白い映画を上映する映画館は、天国にあるのだろうか。





いつかの日記に書いた気もするけれど、
そう頻繁に会わない距離で暮らすということは、
おかしな安堵の上に成り立っている。

その人は常に元気でやっている、
自分の大切な人たちは容易く消えてしまう筈などなく、
人間関係はそう簡単には途切れない、そんな安堵。

そんなものは皆、完全ではないのだ。
次に対面するときは棺の中かも知れない。

遠い場所にいるということは、
そんな可能性をどこかで許すということなのだな。


あまりに突然の不在に、そういったことを改めて考えたりする。





映画や本がたくさん紹介された彼の日記は、残ったままになっている。
わたしが楽しみにしていたそういったものは全部、
彼の生きた「痕跡」の一部になってしまった。

悲しいのか、淋しいのか、まだあまりよくわからないのだ。
でも、そんな痕跡をちらりと眺めて、ちょっとだけ泣いた。



グッバイ・オールド・スポート

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