センチメンタルは

秋の季語である。



アニバーサリーの告知をしたついでに、書く。
というか載せる。

先週中盤くらいまでのことを、端的に、かいつまんで、
箇条書き的な備忘録として記録。



●absolute!!

7日、仕事後、一旦帰宅して一風呂浴びて、
一時半頃、大急ぎで自転車でabsolute!!@loopへ。
absolute!!2周年兼absolute!!のCD全世界発売リリパという豪華さ。

先日、6年ぶりくらいにloopの別のイベントへyam?who目当てで足を運んだ際に
ラウンジがめちゃくちゃに込んでいるのにも関わらず、
1時半をまわってもフロアが空いているというのを目撃して、
「わりと居酒屋的だな」と悲しくなったのだけれど、
absolute!!は全くそんなことなく、フロアで楽しく踊る人多数。


すきな曲がたくさん流れたけれども、
ゲストのKaren P嬢の流す曲は知らない曲ばかりで、
それでいて俄然楽しい。
どんな人なんだろう、と思ってフライヤーを見てみると、
「若干23歳で英国営放送局BBC Radio Oneの
 ジャイルス・ピーターソンによる人気番組
 「WORLDWIDE」のプロデューサーに抜擢」とある。

「これ、誰のなんていう曲か知りたい、
 教えてもらって明日探して即買おう」という曲に
一晩に3回も出逢えれば相当に楽しいほうだと思うのだけれども、
3回なんていうのは軽く越えて行った。
自分の知ってるすきな曲がかかると楽しいというのは至極当然の話であって、
知らない曲がたくさんかかっているのに、とても楽しい、
これっていいイベント、素敵なイベントの条件なんではないかしら。
踊り狂いながら、ぼんやりとそんなことを考える。

KezさんのDJは今回も聴きはぐってしまった。
9月のclutureでそのDJを聞いてわたしの中のブロークン熱がぎゅんと再燃したので、
今回も楽しく汗まみれになって踊り狂うつもりでいただけに残念。


京都大阪のフロアにて半径5メートルくらいにいながら、
お互いをお互いと全く認識することなくすれ違っていた
マコトくんともようやくお喋り。
最近、こういう場所で、京都・大阪で同時期に同じような場所で
同じようにして遊んでいた人と遭遇すると妙に嬉しい。
きゃっきゃっと楽しくお喋りをしながらも、
この嬉しい感覚というのは、
上京してから同郷の方に抱く仲間意識、
卒業してから同校卒の方に覚える親近感、
そういう類いのものだろうか、
ということは、関西はわたしの中で過去になってしまったのだろうか、
などと考えて急にぞぞぞと怖くなった。
もしそうなのだとしたら、いつ、何をきっかけに、などともあわせて考える。

わりとおセンチ。
秋ですもの。


●身体

ここ最近、日常が、というか、主に仕事がどったんばったんで、
平日は湯船にゆっくり浸かることもほとんどなく
シャワーで済ませがちであった。
時間の制限なくゆっくりと湯船につかったりすると、
身体に対する愛着がふつふつと湧いて来る。
とくに休日の朝風呂、昼風呂に感じる贅沢さは堪らなく、
暖かいお湯に浸かって手足を伸ばすともう、
指の先から髪の毛一本の先まで喜んでいるかのような。

そんなこんなで風呂上がり、珍しくアルニカオイルで
脚マッサージなどをしてみたら、恐ろしく脚が細くなった。
もともと筋肉質、太く逞しいふくらはぎの持ち主、
このまま自転車に乗り続けたらそのうちスケートの清水のような、
ケンタッキーフライドチキン的な脚になりそうなわたしなので、
細くなったなどといってもたかが知れているのだが、
それでもこの効果にはびっくり。

何だか脚からオイルのいい匂いがするし、
るんるんと浮かれた気持ちでしばらく過ごした後、
こういうことを毎日毎日欠かさずきっちりこなすことに
しっかりと時間リソースを割いている女子と、
割けていないわたしなんかの違いに思い至り、
ほんとうに良くないことであるな、と反省することしきり。

日々の習慣って大事よね、ちりも積もれば山となる!
と声に出して自分に言い聞かせ、ついでに爪も塗り直す。
(言い聞かせたわりに翌日にはそのことをスコンと忘れており、
 当然のようにマッサージはしなかった。
 次にする気になったのは一週間も後のことであった)


●更新

マンションの賃貸契約更新。

私の住むマンションの管理会社の叔父さまは
わりとゆるゆるとした、おおざっぱな方なのだが、
賃貸契約更新のために足を運んだ不動産屋の事務所にて
「じゃあ、これに目を通した上で、ここにサインを」と
差し出された紙の冒頭に載っている契約期間が
20年11月~「20」年11月になっていたのでさすがにちょっと笑った。
指摘すると、「あああ、ごめんねごめんね、
直さなくっちゃね」と仰せられる。
このゆるさ、仕事に支障はきたしていないのだろうか。
他人事ながら、少し心配になる程。

訂正印を押された契約書にサインし更新料を納めたあと、近所を散歩。

歩きながら、このマンションに住むのは
あとどのくらいの期間だろうか、などと考える。
よく遊びに行くような場所にはだいたい自転車で行けし、
24時間のスーパーも歩ける範囲にあるし、
これといって不便を感じてはいないのだが、
なんとなく、引越したい気もする。
今住んでいる界隈は大学時代に住んでいたアパートからも歩いて10分、
わりとよく知っているつもりの場所なのだが、
知らない街に暮らし始めるというのは一体どんな感じだっただろうか、
たくさんある街の中でどの辺りで暮らすのが、
わたしの生活パターンにしっくり来るのだろうか、などと考えながら、
小一時間ほどぐるりと散歩。

引越したらこの風景、
あそこの角っこの自動販売機で缶コーヒーを買って、
あの公園の左から三番目のベンチに座って、
木漏れ日なんかがきらきら揺れているのを見て、
ああ、空はすっかり晴れているし今日は良き日だ、などと
やる気がわいて来てぶるぶるっと身震いしたり、
ああ、今日は曇っているし寒いし、
こんな日はさっさとおうちに帰って暖かい野菜スープを飲んで、
毛布にくるまりながら音楽なんかを聴きつつ読書だな、
なんて思って過ごした時間、そういう時間や季節の塊が
すこんと過去のものになるのであるなぁ。

慣れ親しんだ風景の中をぼんやりとゆっくりと歩きながら、
そんなことを考えて、ちょっとしんみりしたりした。

ちょっとおセンチ。
秋ですもの。


● 神楽坂

9日の日中に、大阪の友人と飯田橋で合流して歩く神楽坂。
その友人は頻繁に東京出張があるらしく、
ここ1ヶ月ほどの間に3回も会っている。
東京のすぐ側で暮らす友人なんかよりよほど、会う回数が多くて不思議。

ゆっくりできそうなカフェを探しつつ、お喋りなどしつつ、ゆるゆると。
友人の何人かに「一度行ってみるといいよ」と勧められていた
赤城カフェに言ってみたかったが、とっくに無くなってしまっていた。

そういえば、赤城神社の工事に伴って店を閉めるために
春頃までの営業になる、とどこかで耳にしていた気もする。
こういうタイミングの逃し方ってとても口惜しい。
ちゃんと足を運んだりしていれば、
そこで見た景色にあっさり感動したり、
そこで出されたコーヒーが美味しくて足繁く通うようになったり、
そういう面白い何かが待っていたかも知れないのに、などと考えてしまう。

神楽坂なんて目と鼻の先なんだし、朝まで酔っ払った挙げ句、
眠りこけて一日の始りに乗り遅れてしまった日、
その眠っていた間に通り過ぎて行ってしまった午前中なんかを
上手いこと活用すればいくらでも足を運べたはずなのである。

最近、自分の怠慢とか甘さ(主に睡魔に対する)のせいで
ひゅっと指先をすり抜けて逃げて行ってしまうそういった物事について、
「まぁ、それがその時点でのわたしの優先順位だったってことよね、
 しょうがない、うん、しょうがないよ」などと
とくに疑問をもつこともなく納得しがちなのだが、
この結果論的納得の仕方というのは人の在り方として
どうなんだろうか、楽ではあるが果たして、などと
考えてもしょうがないことをぼんやりと考えながら、友人と歩く。

結局、昔からそこにあるような、老舗の風情を漂わせる、
こじんまりとした喫茶店「トンボロ」で友人とカプチーノをすすった。


神楽坂には昔ながらのお惣菜屋さんがあって、
週末なんかにときどきおかずを買う。
揚げ物とか、家で自分で作るにはちょっと手間だな、というおかずを買う。
そこのおばちゃんが忙しそうにちょっと乱雑に、
でもほんとうにいい笑顔で「はい、ありがとね」とお釣をくれたりするので、
そう言うのを見るととてもよい街だなぁ、と思う。
一体何のお店なのかよくわからない類いのリサイクルショップの店頭で、
これまたよくわからないレコードが1枚100円なんかで売られていたりとか
(しかもジャケがもの凄い笑えたりするものが多いので、
 買う気もないのに時間があると見てしまう)、
そんな商店街の風景の中で、週末の買い出しをしている風の年輩夫婦や、
ゆるゆるとした散歩を楽しんでいる風の学生が行ったり来たりしていて、
週末の西友に見るようなリアルすぎるそれとは違う、
ほどよい生活感があって神楽坂自体はとてもすき、
大学のころからぼんやりと散歩をしたりする場所なのである。

そんな場所なのであるが、一本裏道に入って、
あらこのお店、面白そう、と思って足を踏み入れた雑貨屋だか何だかにて
プライスカードをひらりとめくると、想像と一桁違う数字が並んでいたり、
裏道の裏道に入ったりすると、
我は高級料亭也、という風情のお店があったりするので、
ちょっと美味しいご飯をひとりで食べたかっただけなのに、
びっくりするくらい高いお店だったりしたらどうしよう、怖い、と思って、
よく考えればいくらわたしがうっかり者だとは言え、
そんな店に間違って入るわけはないのだが、
それでも何だか恐怖心が消えずに、
夜ひとりでは神楽坂の飲食店に立ち入れない。
その辺りの恐怖の感覚は大学生だった時分とと全く変わっておらず、
開拓したいな、と思いつつも飲食店にはほとんど足を踏み入れられていない。
(なので、上記の総菜屋でおかずを買うコースを辿ることになるのだ。)
もともと食に対する関心が薄いのだと思う。

そんなわたしにとって、神楽坂で夕飯を食べる、というのは
たぶん他の人が考えるよりも特別な価値があることで、
友人の友人がおすすめだと言って連れて行ってくれた
クレープリーというお店でちゃんと夕飯を食べれたことは妙に嬉しく、
神楽坂で友人とご飯を食べても良いということは
少し大人になったのだな、などと思った。



●家を買う、ということ

10日。
仕事を無理矢理やっつけて、夜は友人宅へ。
練馬のマンションを購入したとのことでお邪魔する。
シチューを作ったの、という友人と、
山崎まさよしのシチューの歌を歌いながら歩く。

中古物件をリノベーションしたとかで、壁をぶち抜いたのだろうか、
広々とした居心地の良い空間。
そして居住空間と同じくらい広いんじゃないかしら、
という広さのベランダ。
晴れた休日の昼過ぎなんかにこの広いベランダで、
「休みの日だから昼間っから飲んじゃうもんねー!」などと言いつつ
ビールを飲みつつ、ハンモックに揺られながら読書、とかしてみたい、と
頭の中で想像して、ひとりで勝手にテンションを上げる。

友人が用意してくれたシチューと、ガーリックトースト、
それとサラダ(トマト入り)を食べながら、
ゆるゆるとお喋りをして過ごしつつ、
家を買うということ、
借り物でない空間に住まうということについて少し考えて、
そのときの住に対する愛着たるや果てしないものなんじゃないかしら、
それにしても毎晩帰ってぐっすり眠る場所が
借り物の空間でないというのは凄いことだなぁ、
と、その購入の決心のようなものに漠然と感心する。


●猫

その友人宅では2匹、猫を飼っていた。
猫と聞いてわたしが想像するものよりも二周りくらい大きい、
まるまるとした、堂々とした、それでいてかわいい猫。

姿勢を低くしてそろそろと近づいて行ったところで、
毛という毛を怒髪天突く勢いで逆立てて
「ふー!」と言われてしまったりするのだが、
それでも愛くるしくて目で追ってしまう。

猫を飼ったことがこれまでに一度もないわたしにとっては、
猫の行動そのものがとても興味深い。
部屋の中の障害物の間を8の字を描くようにして、
とてもゆっくりと、しゃなりしゃなりと歩いていらっしゃる。
こちらをちらと見ることもなく、すっと前を見据えて闊歩、
「ここ俺んち。お前、他所者」と言わんばかりの堂々とした風情。

そんな様を見ながら、猫というのは緩い曲線を描きながら、
カーブするときは曲がる角に身体をこすりつけるようにして歩く、
そんな動物なのであるな、と思った。
ということは、さも柱か何かであるかのようにして、
彼奴の導線上にわたしがすっくと立っていれば、
脛の辺りをすりすりとしながら歩いて行ってくれるんじゃないかしら、
「あれれ、柱かと思ったのに人間だった。でもいいや」みたいな感じで
仲良くなれたりしないかしら、と思って試したところ、
思いっきりわたしを避ける形で弧を描いて通り過ぎて行った。

むぅ、と思って繰り返し試してみて、
4回目くらいの試みでようやくすりっとしてくれた時に、
嬉しさのあまりさっと手を伸ばしたら、
すかさず「ふー!」と言われた。

それでもかわいい、猫。

犬は温いし、姿を見つけるなり尻尾を振って全速力で駆け寄って来て、
それはそれで可愛いに違いないのだが、
なんというか、あの忠実な目で見られるとときどきひどく哀しくなる。
その朴訥な忠誠の表現含めて愛らしいと思う一方で、苦しくなる。
その点、猫は気楽なところがとてもよい気がする。
猫も温いし、なんせ気侭で勝手、
気まぐれにごろごろとすり寄って来たとしても、
ときどきは「ふん」と知らん顔したところで
いちいち尻尾を垂らしたりしなさそうな風情。
そこも、とても、よい。

と、猫を見ていてそんなことを考える。



●年齢

12日。
仕事先に「いやぁ、新規客を取ってリピーターに育てたいなら、
次に手を出すべきはマタニティー商材でしょう」とかいう話をする。
する、というか、した、というか、
そもそも1年前から提案し続けている。
渋っていたインナー系の取引先の重い腰がようやく浮き始めた感あり。

「でもマタニティー用品、売れるのかしら。
 使う期間なんてたかが知れてるのに高いじゃない」と仰るので、
わたしがミキハウスで働いてた頃はこのくらいの価格帯のものは
抵抗なく買って行く方が多かったですね、というような話をしたら、
「でもさ、大倉さんミキハウスにいたのってバブルとかそういう頃でしょ」
と言われた。

90年代初頭、わたしはまだランドセルをしょっていたのだが。
それで働いているっていうのは、
どんだけ過酷な環境におかれた勤労学生なんだ、と問いただしたい。

たぶん、その方も咄嗟に口にしてしまったのだと思う。
時間の計算とかせずにぽろっと出てしまった一言だったのだと思う。
というか、思いたい。
口にした側に悪気はないだけに、かなり抉られた。

先日久々に再会した大学時代の友人に、
「いやぁ、智子ちゃんはさぁ、
 25歳っていったら25歳で通る顔だけれども同時に、
 35歳っていったら疑問を持たずに35歳だと信じちゃう顔だよね」
と言われて「うん、よく言われる」と返しつつ「むむ」と思ったのだが、
大卒で90年代初頭にすでに社会人ということは
若く見積もってもそろそろ40代、という計算。

3歳以上年齢を上に見られた場合、
「き!」と思ったとしても笑顔を作って、
「またまたぁ、大倉、よく若く見られちゃうんですが、
 ほんとは●●(この部分には言われた年齢よりも
 さらに二つくらい増した数字を充てる)歳なんですぅ、
 まいったなぁ、うまいんだから●●さんてば、もう!」などと
わりと本気で肩をびしばし叩きつつ大嘘をしれっと返して
自己満足的逆襲を謀ることにしているのだが、
今回はそんな気にもならず、ただただ唖然とした。

「あ、んなわけないわね、ごめんごめん、
 決して老けてるって言ってるんじゃないのよ、
 断然若い、やっぱ若いわぁ(←棒読み)」と。
そこまで言われると抉られるというよりむしろ、
何がそんなに老けているのかが気になって仕方がない。
その取引先を後にする前に「ちょっと御手洗いお借りします」と席を立って
鏡を確認してしまった。

若干老けているのは認めるが、そんなに、だろうか。
ふてぶてしさが輪をかけて年齢を上に見せてしまっているのやも、
とも考える。
そう言えば大学に入学したての頃に参加した新歓コンパでも、
3年生の先輩にOGに間違えられてビールを注がれ、
「後輩なのかよ!」と突っ込まれた。
昔から多分にふてぶてしい、のだと思う。

これ以上ふてぶてしくはならないよう気をつけよう、
と思った5秒後くらいに、
これ以上悪化しないように、と考えるだけで、
現状のふてぶてしさを改善しようとしない、
この発想こそが本当にふてぶてしいのかも知らんな、と思った。



●マニフェスト

13日、マニフェスト@オルガンバーに仕事帰りに遊びに行く。
神谷さんが何故飲むのか、という話がえらく面白かった。
そして「酔い潰れて喜んでもらえて、楽しんでもらえて、
笑ってもらえるのなら、それでよい」という言葉には深く同意。

ほんま大事ですよね、
何で大笑いしたかなんてすぐ忘れられちゃうんだけれど、
人を笑わせられるというのはとても大事なこと、とか、そんな話。

その他、諸々感動する系のお話と笑える系のお話を拝聴し、
終電で帰宅。


●死ぬ日

14日。
帰り道、いつも通る道の路上にて、猫の亡骸に出くわす。

前方を行く自動車が決まってギュンと右にハンドルを切るので、
何ごとかと思ったら、横たわって動かない猫がいて、
そこから液体のようなものが広がっていた。
黒くて赤かった。

可愛い猫だったに違いない。
可愛くない猫などいないのだ、きっと。
瞬間、埋めてあげたいな、とそれは強く思ったのだけれど、
仕事も残しているし、行きたい場所もあるしで、
ここで自転車を止めて亡骸を道路脇まで運び
一旦帰宅してスコップかなにかとタオルかなにかをピック、
この場所まで戻って来て、どこか見晴らしのよさそうな丘とか、
そういう場所に埋めてやる、とわけにもいかないのだ、
などと心の中で言い訳をしながら、
しれっと自転車で走り過ぎてしまうわたし、
そんな自分を呪って、帰宅後に少し泣く。


泣いたことで気力体力ともに使い果たし、
cluture@東京サロンに行く気力すらをも失い、
仕事だけやっつけて、お風呂に浸かった後、毛布をかぶってぼんやり。


時間は作るもの、忙しいと時間の使い方が賢くなるからよい、
24時間の枠の中で最善のことを、最善のものを、
そういったスタンスの大切さっつうのはよくわかるのだが、
まるっと寝ない日がどのくらいの期間か続けば
わたしだって死ぬのだろう。
赤くて黒い血を流したりするんでなくとも、
毎日きっちり眠っていたとしても、いつかは死ぬ。

その途上のどの辺りに今現在いるのか、
紆なのか余なのか、それとも曲なのか、はたまた折あたりなのか、
まったく想像はつかないけれども、
この楽観的性格で平均寿命くらいまでは
生きるんじゃないかしらという前提のもと、
ざっくりと逆算するとここ5年でどんなことをしたいか、
などをぼんやり考えつつ、
その一方で、いま何を考えたとしても、
5年後も10年後もむしろ死ぬ日まで、
こういった考えてもしょうがないようなことをうだうだ考えながら
ぎゅんぎゅんと日々は過ぎ去って行って、気付けば死ぬ当日を迎えて、
でも人生わりと楽しかったしいいじゃないの~などとお気楽に思いながら
死ぬのだろうな、わたしは、と思いながらいつのまにか眠る。





箇条書き的日記を書くとひどく楽で、
楽に任せて夜中につらつらと日記を書いたりすると
おセンチな要素を拾い上げる向きがもれなく強くなる。

でも、いいんでないの。
なんせ、秋ですもの。


(この日記は夜中に書いたのでした。)

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